黄昏に飛び立つ
ミストに戻ってまず違和感を覚えたのが、村人たちが纏う空気だった。村を挙げて大袈裟なほどに歓迎され、不在の間も手入れしてくれたのだろう、焼け落ちた家は修復され庭木まで定期的に剪定されている様子の、整った生家がリディアを迎えた。
あらゆる村の大人達に気遣われ、生活が整うのはすぐだった。谷を崩し村を出た過去を考えれば良かったと言えるのだろうが、なんとも落ち着かない心地だった。
「あーっ、いたいたリディア!」
「エッジ!」
その日買い物帰りのリディアを迎えたのは、遠いエブラーナに戻ったはずのエッジだった。驚いて立ち尽くしたままのリディアにエッジは駆け寄り、少し屈んで視線を合わせると口元を見せてにかりと笑った。
「おめーの一人暮らしが心配で見に来た。どう? 俺って優しいだろ」
「……ばか」
あっけにとられた様子のリディアを見て、エッジは嬉しそうに笑った。
せっかくなら見せたいところがあるんだ、というリディアに連れられ、二人は緩やかな坂を上がる。途中すれ違った村人はエッジをにこやかに見送ってくれたが、どこかひりついた色が視線に滲む。
小高い丘の天辺には大きな楓が一本だけ立っていて、リディアはその幹に背を預けるように座った。エッジもそれに倣う。
夕陽の、燃えるような紅が辺りを包んでいた。
リディアは落ち行く陽を見つめたまま、そっと口元を緩める。
「綺麗でしょ。村は燃えたけどここはずっと変わらないの」
「うん」
「来るって先に教えてくれたら、もっとちゃんとお迎えしたのに」
「いやあ、俺も暇じゃないのよ。バロンに用があって、ローザに頼まれてついでに来ただけ」
ついでってひどおい。呟いて膝を抱いた。こんなにわかりやすいのに忍者って大丈夫なの?とリディアは思う。
「上手くやってるか?」
リディアは答えず、足元の花を見つめた。陽が山肌に溶け込み、影が一層深くなる。冷えた風が髪を揺らして、リディアはゆっくりと口を開いた。
「……あのね、あの……。なんだか、大切にされ過ぎているような、気がするの。悪く言ってしまえば、なんだか遠い。わたしがどこかへ行くことを、みんな怖がってる」
なるほど、とエッジは思った。血が濃いのだというリディアを留めておきたい滅びゆく小さな村。月の幻獣神とすら契約を交わした彼女は、この村ではあまりにも特別になってしまっている。さっきすれ違った村人は、エッジがリディアを連れて行かないか心配していた。リディアを心配しているのか、召喚士がいなくなることを心配しているのかは知らないが。
「まあ、俺だって国じゃ英雄だ、分からないでもない」
「……エッジはもともと王子様でしょ。わたしなんて、普通も普通、ありきたりの女の子だもん」
ふいと視線を逸らしてリディアは俯いた。伸びた睫毛が頬に影を作る。零れたのは、リディアの願いだ。エッジは、伏せた顔を覗き込むように体を傾いだ。
「おおっ、そーだなあ。良く食べて良く泣いて良く笑って。びっくりするほどお手本みたいな普通のガキんちょさ、おめーは」
リディアは大きな瞳を瞬かせながら顔を上げた。
しゃくしゃくと若葉色の髪を遠慮なくかき混ぜるエッジの言葉は、いつも通りの揶揄いを乗せていた。しかしその声色はどこまでも穏やかで、柔らかく細められた瞳がリディアを見つめている。
「知ってるよ、お前が普通の女の子だって」
「……っ」
リディアは堪える間も無く、緩んだ涙腺から雫を滴らせた。引き結ぼうとした唇は震えて思うように動かせない。
ここに来てからずっと欲しかった言葉だった。
目の前の胸に飛び込むと、エッジは頭を一つ撫でてからそっと背中に手を回し、リディアが泣き止むまであやすようにとんとんと叩き続けた。
「じゃあ、気をつけてね」
「おう」
エッジの滞在できる時間はリディアが思うよりもうんと短かった。村の入り口までリディアは見送りに来て、最後に照れたように組んだ指を忙しなく動かした。
「わたし、ちゃんと頑張ってみるよ。……今日、すごく嬉しかった。エッジも頑張ってね」
「それなら良かった。……また来てもいいか?」
「秋には収穫祭があるよ」
「じゃあまたその頃に」
穏やかに笑うリディアはエッジの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。その背が見えなくなって、浮き上がった飛空艇の機影が点となり、空に溶けるまで、ただひたすらに見つめる。
胸を満たすのはただ暖かな想いだった。